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2008年07月02日(水)

藤原竜也の「かもめ」

かもめ.jpg
   (左が藤原竜也、右が鹿賀丈史 読売夕刊)
 
栗山民也演出、藤原竜也主演の「かもめ」を赤坂アクトシアターで見た。
アントン・チェーホフの四大戯曲の一つ。劇場は満席。客のほとんどが中年以上の女性。
家に帰って夕刊読売を開くと、杉山 弘さんの評論が出ていた。
タイトルは「想像力を奪った明快さ」。
杉山さんは言う。
「栗山演出の特徴は、リズミカルな芝居の弾ませ方と、周到に掘り下げた人間関係。(中略)分かりやすさにも心が配られ、誰が誰を愛し、そして誰もがそれを満たすことが出来ずに心を乱していることを丁寧に描いていく。しかし、この明快さは同時に、想像力という魅力的な羽をもぎとる結果ともなった」と。
 
「しかし」以下の34字は的確過ぎて非情だ。確かに、想像力というか、情感の奥行というか、それらが入り込む余地が舞台にまったくと言ってよいほどになかった。それだけ出演者の演技は懸命であり、見ごたえがあった。
かといって、明快さを鈍らせるとしたら観客はストーリーに戸惑い、退屈を覚えてしまうだろう。「かもめ」という作品は、そもそも演出が難しい作品なのだと思う。
私は、途中から「自分が演出するとしたら」という想像と共に楽しんでいたのだが、評論家の見方はまるで違っている。
 
「役に入れ込むあまり暴走気味の藤原、とらえどころがなく鼻持ちならない男が道化にしか映らなかった鹿賀、演技がはじけ過ぎの麻美、人物を単色に追い込んでしまった小島――。説明と演技の過剰さが重なり合い、芝居の歯車は最後までかみ合わなかった」と。
 
昨夜、私はお客様からいただいたクレームのことを考えよく眠れなかったのだが、今夜、名指しで批評された役者さんたちはどんな思いでベッドに入るのだろうか。

カテゴリー: 投稿者 :松井


 
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