第三部 「外断熱」の家
入社した頃
1990年、父が〔「いい家」が欲しい。〕を出版する9年前、私は父の会社へ現場監督見習いとして入社した。「断熱・換気ディザスター(災難・めちゃくちゃ)」とも言われた時代である。1999年、次世代省エネ基準が制定され、2003年にはホルムアルデヒドなどの化学物質の揮発対策として機械換気が義務付けられた。
その年、会社は大きく変化しようとしていた。
断熱の方法を見直し、グラスウール断熱材を用いた充填断熱を止め、一部上場企業であるカネカが提案していた「外断熱」二重通気工法(ソーラーサーキット)と取り組もうとしていたのだ。
当時の木造住宅の断熱方法といえば、壁には厚さ50ミリのグラスウール断熱材を柱と柱の間に押し込み、天井に敷き並べ、床下の根太間に30ミリ程度の板状断熱材を差し挟むのが一般的だった。
ところが、そのやり方だと、気密性がなく断熱性も乏しいので、内壁が冷えてしまい押入れや北側に置いたタンスの裏で結露が生じ、カビが発生する。
それだけならまだしも、無風の寒い夜には、小屋裏の屋根下地板が結露でびしょぬれになり、雨漏りのように天井に滴り落ちてきたりした。
また、グラスウールは施工するときに無数のガラスのトゲが飛散し、健康被害が取り沙汰されていた。
父は、誠心誠意を尽くして造った家が、住み心地が悪いだけでなく長持ちしないことに心を痛め続けていた。様々なことを試みたのだが、よい結果が得られず、悩みぬいていたときに「外断熱」という提案を知り、「これだ!」と直感したという。
その瞬間に、父は「これからは「外断熱」の家しか造らない」と宣言した。だが、この父の突然の決定に設計は戸惑い、現場は拒否反応を起こし、受注は止まり、取引先の銀行は経営を心配することになった。
現場監督見習い
私は、会社がそんな状態になる寸前に入社したのだが、与えられた仕事は、主に現場の片付け、掃除、ごみの処分だった。
最初はすぐに疲れてしまい、いっぱいに詰めたゴミ袋をトラックに積むだけで息切れしていた。
大工や職人たちは、なんて不甲斐ない息子なのだろう、すぐに辞めてしまうだろうという目つきで、私を眺めていた。
仕事を終えて家に帰って夕食を取り、ちょっと休むつもりでベッドに横たわったら、朝になっていたというような日々が3ヵ月ほど続いた。すると不思議なことに、日に日に元気になり、具合が悪かったのが、ウソのように心身に活力がみなぎってきた。
春に入社し、夏の暑さが峠を越える頃には、動きの点では誰にも負けないほどの自信がついていた。
そうなると、私の役割は床下にもぐったり、小屋裏を点検する仕事が増えるようになった。これは大変だったが、やりがいがあった。
シロアリが発生したとなると、どの部位に、どの程度の被害なのかを知らなければならない。雨漏りとなれば、原因と被害状況を把握しなければならない。床鳴りの相談を受ければ、床下にもぐって原因と対策を求められる。
当時の家の床下は、ほとんど土のままであり、木屑は散乱し、根太間にはめ込まれた断熱材はぶら下がり、あちこちにカビが発生し、動物の死骸があったりで、相当の覚悟を決めてからでなければ入れない状況だった。
また、小屋裏はというと、夏は灼熱地獄で温度が60度を越え、湿気が多く、メガネが一瞬で曇ってしまうことがよくあった。
気休めのように、いい加減に置き並べられた袋入りグラスウール断熱材の表面には、外からの土埃が堆積していた。
師匠
毎朝、現場では大工さんと缶コーヒーを飲みながら雑談したり、仕事の段取りを話し合うのが常だった。私はそこでのコミュニケーションを大切にした。
もっぱら聞き役でしかなかったが、理解できないことは、すぐに質問した。
3時の休憩の場もそうだった。大工さんは、私がそれまでの実体験で知った構造・断熱の方法などに関する問題点、雨漏りを起こさないための工夫などに関する質問に丁寧に答え、いろいろと教えてくれた。
私にとって木造建築の師匠は現場の大工、職人さんたちだった。
「木拾い」と言って土台、柱、梁、天井や壁や床の下地材、フローリング等の内装材や造作材、そして家具にいたるまで使用する木材を全て拾い出す作業をしているとき、机上と現場とではかなり視点や考え方が違う場合が多い。それらを無視したのでは、現場に不満やいらだちが生じてしまう。
現場に張り付いていると、そうした空気が自然と読めるようになる。私はできるだけ現場に出かけ、現場の声に耳を傾けるように努めた。
そのおかげで、木造軸組みに対する理解が早まり、「外断熱」工法の急所を短期間に掴むことができた。
最初の「外断熱」の家
入社した翌年、1991年の秋に会社は「外断熱」の家一棟目を受注した。お客様は、東京の東久留米の三井さんといった。
契約の席で、ご夫妻ともども言われた言葉は忘れ難い。
「私たちにとって「外断熱」というものがなぜ必要で、どのような住み心地をもたらしてくれるものか、いくら説明されても正直よく分からないのです。でも、私たちは社長さんのお人柄を信頼し、お任せすることにしました」
それを聞いた父の目は、うるんでいた。
その夜、父は言った。
「いいか、祐三、どんなに努力をしても100点満点の家は造れないものだ。よくて80点。家造りで大切なことは、80点を100点にしようとするよりも、不足の20点をどうやって補い続けるかだ。それがアフターメンテナンスなのだ。
いずれ代が変わっても、この覚悟は守り通さなければならない。20点を補うことは、地味で、根気の要ることだが、建てて本当に良かったと、お客様に感謝してもらうにはそうすることが何よりも大切なのだ」
この20点を補うということが、単なる物理的なアフターメンテナンスだけでなく、「住み心地を保証」することに進展していくのだが、その夜、私がイメージしたのは、お客様の家の床下にもぐり続ける自分の姿であった。
黒ずんだグラスウール断熱材
ある日、商店街の肉屋さんから10年ほど経った中古住宅を手に入れたので、内装をやり変えてもらいたいという注文をいただいた。
父と上司と3人で現場を見に行った。大手ハウスメーカーであるPホームが建てた60坪ほどの広さの家だった。
父は、我々を伴って家の周りを見て歩き、
「床下換気口の高さが地面とほとんど変わらない。これでは雨水が入ってしまう。こっちの換気口には縦樋からの水が入るだろう」と指摘した。
空き家の玄関ドアを開けると、かび臭い生活臭がした。
父は、台所の床下収納庫を取り出してから床下を覗き、我々にも見るように言った。
カビの臭いがひどく、一部の束は3分の2ほどの高さまで腐っていた。次いで2階に上がり、押入れ天井の点検口のふたを持ち上げてみた。
すると、ふたが予想外に重く、思い切って持ち上げると水がしたたり落ちてきた。上にかぶさっていたグラスウール断熱材がびしょ濡れになっていたのだ。屋根下地の合板には腐朽菌が白濁した縞模様を描いていた。
父の判断は、その原因は雨漏りではなく「結露」ということであった。これでは内装をやり変えても意味がない、床下と屋根の修繕が必要になるので詳しく点検することになり、私が走って肉屋さんを呼びに行った。
肉屋さんは、一緒に歩きながら、しきりにぼやいていた。
「おいおい、家が腐っているって本当なの?」
私は、黙ってうなずいた。肉屋さんは、続けた。
「まいったなぁ。不動産屋の話では、程度が良いから内装とキッチンセットを取り替えるだけでまだまだ十分住める、ということだったんだよ。だから、300万円もかければ新築同様になるだろうと思っていたんだ。なにせあの家は、大手ハウスメーカーが建てたものだからね」
父は、肉屋さんに状況を説明し、小屋裏から取り出した断熱材を絞って見せた。床に水が滴ったのを見て、肉屋さんは覚悟を決めた。
「屋根が腐っていたのではどうしょうもない。この際は徹底的に直すことにします」と。
結露で屋根が沈む
数日後、屋根職人がスレート瓦を下ろし、ルーフィング材を剥ぐと、予想通り、合板は結露水をたっぷり含んで、ぶかぶかになっていた。歩くときは、抜け落ちないように用心しなければならないほどだった。
私は生まれてはじめて見た光景に驚いて、職人さんに質問した。
「結露って、恐ろしいものですね。こんなことはよくあることなのですか?」
「ああ、よくあるね。建てて15年もすると軒先が腐っている家が多いものだ」
傍らにいた大工さんが、
「寄棟でかっこよく造られた家ほど多いね」と言った。
「なぜですか?」
私の質問に父が答えた。
「小屋裏に水蒸気がこもると抜けないから、冷えた北側の屋根下地で結露する。小屋裏で東西南北が分からなくても、カビが発生している面ですぐ分かる」
合板を剥ぐと、真っ赤に錆びた鉄骨と、ぐしょ濡れのグラスウールが現れた。
わずか10年で腐った屋根を目の当たりして、私は、結露の恐さを痛感した。
床板を剥いでみると屋根と同じように下地の合板はふやけ、鉄骨に抱き合わせになっている木材の一部は腐り、シロアリに食われていた。
奥さんを連れて見に来た肉屋さんは、絶句し、ため息を吐くばかりだった。
結局その家の修繕費は、かれこれ予定の3倍以上もかかってしまった。肉屋さんは、不動産業者を通じて売主に抗議し、売主は建てたPホームに抗議したが、Pホームは「家のつくりには何ら問題はない。住み方に問題があったのだ」と主張し、不動産業者は、「家はおまけのようなものだから」と言うだけで一切取り合ってくれなかったという。
結露には、窓ガラスや壁面に発生するものと、構造内部に発生するものとがあり、専門的には前者を表面結露、後者を内部結露という。
父は、内部結露の被害に注目し、なんとかしてそれを発生させない方法を模索していて「外断熱」工法に出合った。
しかし、現場での工事が始まると、ハプニングや冷や汗の連続となった。
「高気密」への挑戦
「外断熱」(外張り)工法というのは、構造体を外側から板状の断熱材を用いて包んでしまうというもので、内側に綿状の断熱材を詰め込む内断熱(充填)工法と比べ数々の利点がある。
構造体の外側に連続した断熱ラインを設けるので気密性を確保することが簡単にでき、構造体内部に結露を生じる温度差がなくなる。
それまでの家は、断熱材を用いても隙間があるために断熱効果が思ったほどに得られなかった。そのかわり、構造体の内部に侵入した水蒸気は拡散されて、結露の危険性を少なくするのに役立った。
しかし、ていねいに断熱材を詰め込んで通気性をなくしてしまうと、水蒸気が拡散しなくなるので、構造体の内部で結露が発生しやすくなる。
また、断熱性が不足していると室内側の壁面などでも、結露が生じる。
1990年前後、「気密性と断熱性は同時に高めなければ意味がない」という建築物理の常識を、ハウスメーカーはもとより、建築家も設計士も工務店もよく知らなかったのだ。だから、この時代「高気密」への挑戦は、同業者からたいへん注目された。
しかし、現場はスムーズに進行しなかった。まず、大工さんたちが手を動かそうとしないからだ。
「こんなプラスチックのようなもので、家を囲ったら木がすぐに腐ってしまう」と言う。
木造建築を長持ちさせるのは、通気性の良さにあると信じてきた人たちにとって、気密性を確保するということは受け容れ難いものだった。かれらは、グラスウールであっても入れない方がよいと主張していた。
構造見学会でのハプニング
「外断熱」二重通気工法(ソーラーサーキット)のはじめての構造見学会には、40人ほどの同業者が参加した。
父と同じようにグラスウール断熱工法に疑問を抱いている人たちが多いことに驚いたが、さらに仰天することが起きた。
大工の感想を聞きたいという要望が出て、ある人が質問した。
「大工さん、どうですか「外断熱」は?」
すると、年配の大工さんは福島弁で答えた。
「ダメだぁー、こんなのは。手間を食ってどうしょうもないよー」
想定外の答えに、参加者の関心は一段と高まったようだった。
「どういう点が?」
「ちょっと隙間があってもダメだぁー。隙間をなくすように張り付けても、テープを貼れだの、面倒でしょうがないよー。それに、地震が来たら壁がおっこっちまうじゃないのー」
周りに集まった見学者の表情がこわばるのが分かった。しかし、回答者があまりにもあけすけに何でも答えてくれるので、見学会は予想以上に盛り上がった。
若造のくせして
「外断熱」二重通気工法(ソーラーサーキット)は、断熱材の内側に床下から小屋裏へと連通する通気層を確保することが急所になっている。
気密を大切にし、空気層ではなく通気層を確保するように施工しなければならない。これが予想外に難しかった。
二棟目の現場は一棟目とは違う大工さんだった。内側通気層が確保されていないことに気づいてやり直しを求めたところ、言うことを聞こうとしないどころか、「こんなめんどうな仕事はしたくない」と怒り出した。
たまたま親方が出かけていて、応援の大工が手伝っていたのだ。前に勤めていた設計事務所では、私のような青二才であっても現場では一目置いてくれていたのに、その大工は最初から反抗的で聞く耳を持たなかった。
「若造のくせして、うだうだと生意気な理屈をこね回すんではないよ」
「なんだと。現場監督の言うことを聞けないと言うのか!」
あわや取っ組み合いの喧嘩になりそうになったのを必死にこらえて、私は会社に戻り、報告をした。
父は、すぐに現場へ向かった。
厳しく叱るであろうという期待に反し、父は一通り現場を見た後で、大工に笑顔で話しかけた。
「申し訳ない。この新しい工法は実に厄介なんだ。ここのところなのだが、空気が流れるように一寸ほど隙間を作って欲しいのだよ」
「申し訳ない」という言葉には、ハッとするほど気持ちが込められていた。大工さんはそれを聞くと、態度が急に改まった。
「最初からそう言ってくれればいいのに、この若造は頭ごなしにやり直せと言うものだから、私もつい……」
と言って、大工さんは、頭を掻いた。
帰り道、父は言った。
「造ったものを壊す。大工、職人にとってこれほど嫌なことはない。作り直せとは、よくよくのときにしか言ってはならない。やり直しのないようにするのが、現場監督の一番大事な仕事なのだ。どうしてもと言う場合には、誠心誠意を込めて、まず謝ることだ。大工さんや職人さんたちは、新しいことに拒否反応を示す。だが、そういう人たちほど、いったん理解して納得さえすればいい仕事をするものだよ」
その一件から学んで、私は大工さんや職人さんたちに問題点を事前にわかりやすく説明することを心がけるようになった。
そうすることが、お客様のためになり、会社の利益になると理解したからだ。
見慣れない家
「外断熱」工事が終わると、木造軸組の家はすっぽりと断熱材に覆われてしまい木材が外から見えなくなった。屋根下地板も、柱も、基礎もすべて外側から白い板状の断熱材で包まれたのだ。
窓に、アルミサッシではなく白色の肉厚のプラスチックサッシが取り付くと、初夏の陽射しを浴びてまばゆいばかりに輝いて見え、その見慣れない姿がセンセーショナルな反響を巻き起こした。
道行く人は「何、この家は?」と怪訝な表情を浮かべ、なかには、「これは、どこの国の家ですか?」とわざわざ尋ねる人もいた。
納品に来た金物屋は、呆気に取られた様子でポカーンと立ち尽くした。金物屋は、工務店だけでなくたくさんの大工、職人と付き合いがある。納品のためにあちこちの現場に出入りするので情報通であり、比較論が得意だ。
「木造の家で、こんなことをする必要があるのかね」
金物屋の第一声だった。
「これでは、木材が窒息してしまうはずだ。木造の家は、通気性を良くしなければ長持ちしない。おたくの社長は変わっているとは聞いていたが…」とため息をついた。
そして、帰り際に「あんたは跡継ぎなのだから、しっかり考えた方がいいよ」と、心配げに付け足した。
きっと、金物屋の見方は、周囲の同業者にあっという間に伝わっていくに違いない。私はその夜、「外断熱」工法を普及させるにはどうしたらよいか遅くまで考え続けた。
大工と「外断熱」
当時、木造の「外断熱」の施工現場はたいへん珍しかっただけに、第2回目の構造見学会にも、大勢の同業者が見学に来た。
現場を見た瞬間、金物屋と同じようにポカーンとする人と、「うわーっ、これはすごい!」と感嘆する人の比率は、半々ぐらいだった。
後者の人たちは、目を輝かし口々に言い合った。
「断熱工事が終わって窓が取り付けば、このまま住めそうだ」
「この状態で大雨に見舞われても、何も心配はない」
「家ががっちりと見える」
ただポカーンとしている人たちは、たいがい無口で、態度を見ただけで、「外断熱」に懐疑的であることが分かった。
しかし、玄関ドアを開いて中に入ると、両者ともに感動するのだった。
「うわーっ、涼しい!」
「えっ、クーラーつけているの?」
当初は批判ばかりしていた大工さんが、福島弁で淡々と話した。
「わたしゃー、昼寝を小屋裏でしているよ。そこが一番静かで涼しいから」
その言葉ほど、懐疑派の人たちの心を動かしたものはなかった。
私が100の言葉を並べるよりも、はるかに的確に「外断熱」工法の魅力を言い尽くしていた。
「わたしゃー、最初はこんな工法はダメだと思ったけど、実際やってみるといいもんだ。外に音も漏れにくいから、朝早くから夜遅くまで、仕事をしていても、近所から怒られないしねえ」
いかつい顔の大工さんが、笑みを浮かべながら続けて言った。
「何よりもいいのは、グラスウールのチクチクがなくなったことだよ。ホコリがまるっきり少なくなったよ。電気屋も水道屋も、えらく喜んでいるナー。工事そのものも慣れてしまえば、「外断熱」の方が簡単だぁ。グラスウールを入れ、隙間だらけの家を造っていたのでは、住む人が気の毒だ。大工と職人の健康を考えても、「外断熱」はいいねぇー」
最後の一言は、工務店主たちの心に染み込むようで、みんな深く頷いた。
おまけの工事
しかし、大工さんがみんなこのように理解するはずもなかった。
周りに建つ家はみんなグラスウールを用いる内断熱(充填)工法なので、大工さんたちも、よく見学に来た。
当時行われていた断熱の方法は、グラスウールを床だと根太の間、壁は柱の間に、天井はその上に敷き並べるだけだった。その仕事は大工さんが行うのだが、手間代はまったく支払われず「おまけの工事」として行われていた。
工事中に、1立方メートル当たり1万本のガラスのトゲが飛散するといわれていただけに、断熱工事は、大工さんが最も嫌がる仕事だった。
彼らは、断熱材の合わせ目にテープを貼る作業に関心を示したが、それが隙間をなくし、気密性を高めるために重要であると説明すると反発した。前に述べたように当時、断熱工事は隙間を作ったのでは何の役にも立たないという当たり前のことが理解されていなかったからだ。
彼らは決まって同じ質問をした。
「で、手間代はそれに見合って払ってくれるの?」と。
私が言葉を濁すと、彼らの表情はしらけたものに変わるのが常だった。
合理的ですぐれた工法なのに、手間代だけの問題で、「ソトダンネツなんて、あれはダメだ」という風評を大工仲間に広められるのは、きわめて残念に思われた。
乾燥材
ある日、私は、現場でクロス屋から気になる話を聞いた。仲間が手がけたという「外断熱」の家に関することだった。
彼の話は、こうだった。
10月の末に引渡した家が、翌年の2月に入ってクロスのねじれや亀裂が目立つようになった。
訪ねてみると、たしかにひどい状態だ。原因は下地が暴れた結果だとすぐにわかった。そこで、工務店が下地の石膏ボードを剥がしたところ、無垢の柱はねじれ、ひび割れ、間柱は反って変形していたというのだ。
クロス屋は、仲間の職人から聞いた話をひととおり説明した後で、
「その工務店は、これからは「外断熱」がいいと手がけたようですが、二度と手を出したくないと言っていたそうです。
監督さん、「外断熱」をやる場合、乾燥材を使ったほうがいいようですよ。お客様は、クロスの様子がおかしいとすぐに我々の腕のせいにするのですが、下地が暴れたのではどうにもなりませんからね」
と、暗に釘をさすかのように言った。
山から切り出したばかりの木材は生木と言われ、含水率は50〜60%ある。製材所で挽きたてのものは含水率が30%前後となり、この状態のものをグリーン材という。
さらに含水率が20%程度以下になると、狂うことが少なくなり、安定した強度を発揮するようになる。そうするには自然乾燥が一番良いとされるのだが、供給量が限られてしまうので人口乾燥材(Kiln Dried)=KD材が流通し始めた。
しかし、値段が高いので、一般的にはグリーン材が多用されていた。そこでクロス屋のような話が目立つようになって、うっかり「外断熱」をやるとクレームで困ったことになるというような噂が聞かれるようになったのである。
構造体を外側から断熱すると、木材は断熱材の内側、すなわち住む人と同じ環境になる。
「外断熱」は、高気密と一体のものだから24時間の機械換気が必要だ。冬季の乾燥注意報が出ているような日に、外の空気をそのまま室内に入れると、相対湿度は低くなり、過度な乾燥状態となる。
いわゆる「過乾燥」なのだが、その状態は、住む人が適度に加湿をすることで解決されるが、構造内部の木材は、亀裂、収縮、ねじれ、反りなどが発生し、夜中に「パチーン」というような悲鳴をたびたび発することになる。
ひどい場合には、構造強度や気密性に悪影響をもたらすことさえ生ずる。クロス屋の体験した家には、グリーン材が用いられていたと思われた。
充填断熱工法であっても、「外断熱」の場合ほどではないが緩慢な狂い、不具合は発生し、長年にわたって住まい手と造り手を悩ますことになる。
そこでハウスメーカーはいち早く、乾燥が保証され、1本1本の強度が確認されている集成材を用いるようになった。
無垢の木にこだわる造り手の中には、集成材の欠点をあげつらう人がいるが、適材適所の考えで合理的に使用するのが賢明だ。それが父の考えだった。
リフォームで知る家造りの真実
当時は、大手ハウスメーカーの中には、「手離れ」、つまり売ってしまったらいかに早く客と縁を切るかで営業マンを評価していたようだ。
だから、結露やシロアリの被害、雨漏れですら面倒を見ないところが多かった。
社内では、それらの相談やリフォームの依頼があると、まず私が真っ先に出向くことになっていた。
最初は、父や先輩についていき、目の付け所やコツを教わったが、しだいに一人で行くことが多くなった。
「床下がダメな家は、リフォームしてもお金が生きない。やるのであれば、床下を改善してからにするべきだ」というのが父の考えでもあったので、私は常に床下にもぐることから始めた。ところが、床下へ入ることができない家、入れても人通口がないために移動できない家も多かった。
造る側が床下を軽視し、住む人も無関心だったために、床下は見捨てられた空間となっていたのだ。
ほとんどの家の床下は、前にも書いたが、地面がむき出しで、かび臭く、整地されておらず、掃除もされていなかった。基礎を見ると、換気口の両端にひびが生じており、中には深刻なひび割れが起きていたり、シロアリの蟻道が立ち上がっていたりもした。
防湿コンクリートを打ってある床下は皆無であり、床下に詰められたグラスウールは黒ずんで垂れ下がり、板状の断熱材の場合はずれ落ちていた。そして壁の中のグラスウールはカビで黒ずみ、ずれ下り隙間だらけで、断熱効果が乏しい状態の家がほとんどだった。
シロアリ消毒の悲劇
ある家から、「床がきしむので点検して欲しい」という依頼を受けて訪問した。
洋風の2階屋で、オレンジ色のS型瓦をのせた寄棟の似合う、雰囲気のよい家だった。
広いリビングには暖炉が備えられていて、その周りには濃茶のレンガが張られ、床は本格的な寄木張りで、天井には豪華なシャンデリアが二つ吊るされていた。
一見して予算をたっぷりと掛けたということが分かった。しかし、空気は重くよどんでいて、座ったソファーが湿っぽく感じられた。
やがて、70代前半と思える痩せ型の品のいいご主人が、三冊ほどの大学ノートを持って現れた。
「この家は30年ほど前に建てました。普請道楽だった父が、知り合いの大工さんを新潟からわざわざ連れてきて、材料にもずいぶんこだわって造ったものです。先ほど応対したのは姉ですが、私には子供がなく、女房は10年ほど前に亡くなりました」
ご主人は、自己紹介をした後で立ち上がりながら、
「1年ほど前から床鳴りが気になりだしたのですが、ここでしょ、それから、ここ」
と、踏みつけると、ギィーっと床が鳴り、わずかに沈むのがわかった。たぶん床下は土のままで、そこから上がる湿気で下地板が傷んでいるか、束が腐っていると推察できた。
私が説明すると、ご主人は大学ノートを取り上げてこんな話を始めた。
「あれは、10年ほど前のことなのですが、たまたま私が家にいたときに、シロアリの点検を無料でするという飛び込みの営業がやってきました。無料でやってくれるというので気軽に応じたんです」
ご主人は、淡々と話を続けた。
「その業者は都内からやってきたのですが、この辺りでの注文が急増している。ということは、シロアリが活性化しているからだと言いました。で、ちょっと調べますと言って、和室の畳を一枚上げて、杉板の一部をはずし床下にもぐりました。しばらくして、木屑を持って出てきて、やはり大変なことになっている。これこのとおりシロアリが食べている。すぐに消毒に取り掛かるべきだ、と言うんです。
その場で業者が出した見積もり金額を見て、この程度の金額でやってもらえるならとすぐに承諾したのです。作業の内容は、床下の土の表面と土台などの木部に液状の消毒剤を散布し、シロアリの侵入防止と床下を乾燥させる作用があるという袋に詰まった特殊な薬剤を50個ほど置くというものでした。
作業は思ったより短時間で終わったのですが…」
そこでご主人は深いため息をつき、しばらく沈黙した。
やがて静かに語られた話を、私は背筋が凍る思いで聞いた。
その頃、私たち夫婦は別寝をしていて、私は書斎のある2階で、女房は1階の和室に寝ていました。
シロアリ消毒をして3日後の朝のことでした。食事時になっても起きてこないので見に行きましたら、女房は意識を失っており、救急車で病院へ運んだのですが、帰らぬ人となりました。
あまりの突然の出来事に、私は呆然としたまま女房の葬儀を終えていました。
夜遅く家に帰り、このソファーの上に喪服のまま座っているうちに、うとうとしてしまい、ハッと目覚めたのですが、その瞬間に驚くことが起きたのです。
この天井や壁がグルグルと回りだし、自分の顔は床に押し付けられ、そのまま目を閉じることなく見ていると、さらにグルグルと壁や天井が回っていくのです。やがて意識を失い、気がついた時にはいま同居している姉が、病院の枕元に立っていました。
それからしばらくの間入院をしていたのですが、退院しても体の具合の悪さは治らず通院を繰り返しました。
私は何でこんな不幸がわが家を突然襲ったのか、前世のたたりではなかろうかなどと思い悩む日々が続きました。
数年後のことです。新聞記事で、シロアリ消毒による室内空気汚染がそのような体調不良をもたらす場合があることを知ったのです。すぐに業者に電話しました。ところが電話は通じません。弁護士さんに相談したのですが、加害者も、加害原因も特定できなくては、裁判の起こしようがないと言われました。
このノートは、その後勉強した化学物質に関することで埋め尽くされているのですが、女房には本当にすまないことをしたと後悔しています。
あなたは、お若いしこれからシロアリ対策もいろいろとおやりになるでしょうから、どうか、私の体験をぜひお役に立ててください。
その後、この家に用いられたシロアリ消毒剤は、クロルデンと判明した。
某大手ハウスメーカーが、それを使用することで10年保証を自慢した時代である。1986年にクロルデンは使用禁止となり、その代用となったクロルピリホスは2003年に同じく禁止となった。
奥さんにとって、床下から揮発してくる空気は、毒ガスと同じだったのだろう。
後にお話しするが、2008年私は、消毒剤を一切用いないで防蟻する「MP工法」を開発し、特許を取得、ご主人の期待に応えた。
家の重大な病気
この経験も大いに勉強になった。
お客様の話によると、ある日、インターホン越しにリフォーム業者だと名乗る人が、お宅の外壁が変色していておかしい、雨漏りしているのではないかと声をかけてきた。その人は、近所で他の家のリフォーム工事をしているといい、毎日のようにインターホンを鳴らすのだった。
そして具体的におかしいとされる場所を指摘するので、最初は半信半疑で聞いていた家族はしだいに不安になり、知り合いの紹介で私の会社に相談を求めてこられた。建ててからわずか4年なのだが、工務店は倒産してしまったという。
サイディング貼りの木造2階建ての家は、1階に親が住み、2階には鉄骨の外階段を利用して娘夫婦が住んでいた。業者が指摘する雨漏りらしい部分は、鉄骨階段の脇とベランダの軒下に生じている黒いシミだった。
私はさっそく床下から点検を始めた。基礎パッキン工法の床下は、冬なので冷え切っており、床下には断熱材が用いられていなかった。1階に住む母親が、異常に寒いと嘆く理由はわかったが、雨漏りの痕跡は見当たらなかった。
そこで、黒いシミが出ている箇所のサイディングを剥がして点検することにしたのだが、お客さんは、グレーの横板貼り調のサイディングに飽きてきたので、この際張り替えて雰囲気を一新したいと望まれた。建物全体に足場を組んで、本格的な調査とリフォーム工事をすることにした。
その年は例年以上に寒く、隣の空き地には霜柱が立っていた。
外壁のサイディング板を剥がし始めて直ぐに、目に飛び込んできたのは、水で濡れてヨレヨレになってる防水紙だった。
業者が指摘したように、やはり雨漏りは本当に起こっていたのである。それも、かなりの広範囲に渡って雨漏りの跡があり、とくにひどかったのは窓廻り、そしてベランダと壁との取合いの部分である。鉄骨階段と壁との取合い部分も同様だった。
サイディングの場合、それ自体から雨漏りすることはほとんどない。なぜなら、接合部はコーキングで目地処理されているだけでなく、ジョイナーと呼ばれる下地板が入っているので、たとえコーキングが切れても浸入した雨水は内部に入らないように工夫されている。また、窓廻りなどから浸入した雨水は、透湿・防水紙があるので構造体内へは浸入しないように施工されている。
雨漏りは、防水紙を濡らしただけで、木部には影響がないように思われた。
しかし、翌朝になって、新たな異変に気づかされた。
前日の夕方にはすっかり乾いていたはずの透湿・防水紙が、じっとりと湿っていたのだ。朝露かと思ったのだが、どうも違う。
よくよく観察すると、それは家の重大な病気、すなわち内部結露のせいだった。
室内には大量の水蒸気が発生する。
人間一人が寝ているだけでも一晩でコップ2杯分にもなるのに、調理や風呂、洗濯物、観葉植物などからも大量に発生し、温度の低いところに集中して結露水となる。
二世帯で住んでいるから水蒸気の発生は倍に近い量になっていたのだろう。その大量の水蒸気が、透湿・防水紙にせき止められて結露していたのだ。
透湿・防水紙は、外部からの雨水の浸入を防ぐだけでなく、内部からの水蒸気を透過させ、外に拡散し結露を生じさせない役割をする。しかし、期待された働きをしていなかった。
この家の断熱の方法は、グラスウール断熱材を柱と柱の間に充填する工法なのだが、水蒸気の侵入を防止する防湿フィルムの施工はされていなかった。しかも、換気が不十分なので室内で発生する水蒸気の量が、透湿能力をはるかに上回ってしまっていたと推察された。
もし飛び込み営業がなく、お客様がサイディングに飽きていなかったら、数年後には土台をはじめあちこちに腐れを生じ、シロアリの被害にもあってしまったことだろう。
雨漏りと内部結露は、家のガンである。早期に発見し、適切な処置をしなければ取り返しのつかないことになりかねない。
私はこれまでに、雨漏りや内部結露で病気になった家をたくさん修繕してきている。なかにはそれらの相乗作用で、新築後わずか3年で腐って住めなくなった家もあった。
火事
「祐三、起きろ! 火事だ!」
ある日の明け方5時近く、私は、父の声に飛び起きた。
近くの街道を消防車がけたたましくサイレンを鳴らして次々に走っていく。父と二人で車を飛ばした。
西武通り商店街の方角に火の手が上がっている。その近くには昨年引き渡したばかりの「外断熱」の家が建っている。
十字路で警官が道を塞いでいた。
車を路上に停め、父が叫んだ。
「私の造った家が燃えているんだ。通してくれ」
二人は走った。
もし、家が燃えてしまっていたら、ようやく軌道に乗り始めた「外断熱」の家造りがダメになってしまうのは間違いない。
「どうか、神様、お客様も家も無事でありますように」
大勢の野次馬をかき分けてその家に近づいた。
外にいた夫妻が父に抱きつかんばかりにして言った。
「イヤー、社長さん。驚きましたよー。隣が……」と絶句した。消防の制止を無視して、開いている玄関から飛び込んだ。奥の和室の窓に炎の影が揺らめくのを見た瞬間に、足が震え始めた。
外に出てお客様の話を聞いたところ、家の中はなんともなく、どこも被害を受けていないという。
鎮火した後で外を回って驚いた。
裏の平家は真っ黒けになった構造材の一部を残してほぼ全焼に近い。家の中から見た窓と、燃えている家とは2メートルも離れていない。
よく見ると、プラスチックサッシの枠は真っ黒に炭化し、二重ガラスの外側が割れていた。タイル張りの外壁の一部も激しく炎をあびたらしく黒色に変わっていた。
ふたたび家の中に入り入念に点検をしたが、異常は見当たらなかった。帰りの車中で、父が言った。
「明日一番で外壁をはがそう」
何が心配なのか、それだけで十分わかった。つまり、炎を浴びた外壁の裏側に張られている断熱材が相当なダメージを受けているはずだからだ。
翌日、大工と職人が集まり、消防の検証が終わるのを待った。周りには近所の人や同業者の姿も見えた。そこでシートで覆って、見えないようにして外壁をはがしたほうがよいという意見が出た。
ポリスチレン系の断熱材は70度以上の熱を受けると変形が始まり、やがて溶けてしまう。
当然一部はそうなっているだろうと推察されたからだ。しかし、父は反対した。
やがてお客様をはじめ消防関係や、多くの人が見守る中で工事が始められた。
大工さんが、引っ掛け方式のタイル下地のボードを外すと、断熱材が見えた。
「無傷だ! なにも変化がない!」
「新品同様だ!」
「これは、すごい!」
みんな口々に叫んだ。
「なぜだろうか? 通気層のおかげだとしか考えようがない」
父の推察に対して、消防の人たちも、「これは参考になる」と感心していた。
お客様はうれしそうに、誇らしげに言った。
「やっぱり、この家はすごい。「外断熱」の家でなければ燃えてしまったに違いない」
ふと見ると、金物屋の姿があった。
私と目が合うと、実に、素直な調子で言った。
「無事でよかったね」
その日、父は、社員を集めて話をした。
「今回の火事で学ぶことがいろいろあった。延焼を防げた主な理由は、隣家の窓との重なり合いがなく、外壁とプラスチックサッシの耐火性能が大変高かったこと、そしてマツミの家には軒天に換気口がないことが挙げられる」
そして、笑顔になって声高に言った。
「それにしても、お客様にケガもなく、よくぞ延焼しなかった。この幸運を心から神様に感謝したい」と。
最初の「住み心地体感ハウス」誕生
1993年、父は自宅のすぐそばに売りに出された30坪の土地を買い、「住み心地体感ハウス」を新築した。
見て、触れてだけではなく、「体感」というごまかしがきかない感性に訴える営業方法を採用したことは、当時としてはたいへん珍しく、勇気があることとして注目を集めた。しかし、残念ながら立地条件が悪かった。
「モデルハウスとしては、日本一辺鄙なところに建っている」と開き直って自慢してみても、訪ねてくるお客様の多くが迷子になり、なかには見つけられなくて怒って帰ってしまった人もいた。
父は、体感ハウスに寝泊りし、日々住み心地の検証に明け暮れるようになった。「私は人間モルモットだ」と人を笑わせていたが、床下に、浴室からスチームを噴出させ、カビの発生を観察したり、過乾燥状態で生活したり、24時間換気を1ヵ月間停めてその影響を体感したりと、考えられることはすべて試していた。
弟が通っていた日本工業大学の小竿研究室とタイアップしてまとめた室内空気質の調査、研究の成果は、「インドア・エアー」の世界会議で発表されている。
暖房は、最初、屋根に集熱パネルを載せる太陽熱利用方式を採用した。しかし、半年ほどすると空気取入れ口の防虫ネットは、羽虫や土埃で目詰まりしていた。この様子では、熱風を床下に送るダクトの内部が心配だとはずして点検した。汚れ具合を見て、だれよりも驚いたのは毎日空気を吸っていた父だった。
その装置は一シーズンで撤去され、深夜電力を利用するイギリス製の「電気式蓄熱暖房」を採用することにした。これは空気を汚さず、音も臭いも出さず、マイルドな放射熱で家中を暖かくし、しかもランニングコストが安いという優れものである。
「外断熱」との相性を確かめるべく、NHKの技術研究所に依頼し、特殊な遠赤外線カメラで放射熱効果の実証調査もした。
三シーズンを体感した後で、父はこんなことを言って本の執筆を始めた。
「本を書くには、最低でも自分がこれぞと確信する家を100棟以上造り、その家を3年以上アフターメンテナンスし、自らも3年以上住まないことには書けない」。