MENU

松井祐三の「外断熱」物語

第四部 住まいと家族

マンション暮らし

私が結婚したのは1997年、28歳の時だった。

相手は、会社の職人の中で、最初に「外断熱」二重通気工法(ソーラーサーキット)の家を建てた板金屋さんの次女である。

新築祝いに招かれたとき、両親と二人の娘がそれぞれの思いを語った。そのとき、のちに妻となる人の態度と話が心に響いた。

「両親には申し訳ないのですが、以前住んでいた家はとても古く、友だちを呼んで来るのが恥ずかしいほどでした。両親が家を建て替えると決意を話してくれたとき、とても驚きました。両親が、偉大に思えるとともに、苦労の大きさを思い、胸がいっぱいになりました。こうして、新築祝いができるなんて本当に夢のようです。

お父さん、お母さん、ありがとう。そして、会社の皆様に心から感謝申し上げます。とくに、現場監督をしていただいた祐三さんに」

最後の一言が、きっかけになったのかもしれない。それから4年後に、彼女と結婚することになった。デートのたびに、家の住み心地の素晴らしさを聞かされていたので、それに少しでも近い住まいを見つけようとがんばった。

とは言っても、まだ28歳。新築の家など、とても手が届かない。

選んだのは、築5年、総タイル張り5階建て賃貸マンションの最上階の角部屋である。東、北、西の三方に窓があった。豪華なエントランス、オートロック、エレベーター、備え付けの対面キッチンセットなどに一目惚れしてのことだが、決め手は家賃が思ったよりだいぶ安かったからだ。

住んで3ヵ月もしないうちに梅雨が明けた。そのとたんに、3LDKの部屋は灼熱地獄と化した。

太陽は、早朝から東の窓を熱し、午後は西側から執拗に攻め続けてきた。屋上が溜め込んだ膨大な熱が夜になると天井から放射されてきて、エアコンの冷気を直接肌に当てていないことには涼しさを得られなかった。

毎夜の寝不足で体力は消耗し、新婚生活を楽しむゆとりもなかった。

現場守り

1997年8月、夏休みの初日のことだった。昼過ぎに空模様が一変し、突風が吹き始めてまもなく大粒の雨が降り出した。

電話が鳴った。

父の声で、「ビラ・トリアノンが豪雨に襲われている。シートを持ってすぐ来い!」と言う。事務所に立ち寄ると、明日田舎へ帰るという現場監督がいた。

二人で現場へ駆けつけたときは、車のワイパーを最強にしても前方が見えないほどの激しい雨だった。

「ビラ・トリアノン」と名づけられたその建物は、西東京地域では最初の木造3階建てのアパートであり、しかも「外断熱」工法という点でたいへん注目を集めていた。

「濡らしたくない」

そう思う父の気持ちが、よくわかった。

私はすぐさまシートを抱えて3階へ上がった。

屋根から滝のような雨が通路部分に激しく音を立てて落下していた。それを防がないと、室内に水が回り、防音に工夫をこらした床や壁を濡らしてしまう。

とっさに状況を飲み込んだ私は、屋根の破風にシートを固定し、通路部分を覆ってしまうことにした。私が脚立に上がりシートを固定しようとするが、強風に煽られ思うようにできない。監督も脚立を立て懸命にシートを抑える。下では、父がそのシートを通路の手すりの外側に固定しようと苦戦している。

大屋根から流れ落ちてくる雨は、正に滝のような勢いで顔面を打ち続ける。

身体が後ろに押される。圧力に負けたら転落してしまうという恐怖と戦いながら、シートを屋根に固定した。

ところが、強風と豪雨の圧力でシートを手すりの外側にかぶせることができない。三人は外側にある足場に出て、シートを引っ張ることにした。風が凪いだ一瞬に、シートが通路を覆った。次の瞬間、大屋根から溜池の水をひっくり返したような勢いで、雨水が三人を襲ってきた。

真ん中にいた監督の身体が悲鳴とともに大きくのけぞり、足場に張られているシートに張り付けになった。私と父が両方から引き寄せて、三人は足場にしがみついた。

努力の甲斐があって室内を濡らさずに済んだのだが、養生不足を猛省させられた。中途半端な養生は、いざというときに役立たないどころか禍をもたらしかねない。

基礎「外断熱」のシロアリ被害

シロアリの怖さは、いくら強調してもし過ぎることはない。

別名「サイレントキラー」とも呼ばれているが、羽アリとして飛び出すまではその被害はほとんど気付くことがない。気付いたときには、たいがいが手遅れで土台や柱がボロボロに食い荒らされている。

基礎コンクリートを「外断熱」するには、まず最初に、シロアリ対策を用意することから始めなければならない。

たいがいは、モルタルで被覆するが、その程度では不完全で安心できない。それを知らないで建てられている家がほとんどなのだが、私の会社も2004年の4月まではこの鉄則を、知らなかった。

シロアリは、基礎のコンクリートに張られた断熱材(ポリスチレンやウレタンフォーム)の内部に道(蟻道)を構築して木材を侵食するので、どこから入ったのかが判別しづらい。

蟻道の発見ができないとなると断熱材をすべて剥がさないことには対策が立てられない。そのため、シロアリ消毒業者の一部には、基礎「外断熱」をやるべきではないとの主張がある。

私も、最初に被害に遭ったときはそう思った。


現場監督をしていた2000年4月の末のことだった。

「羽アリが大量に発生している!」という知らせが入った。その家は、東京の国分寺市に1年前に建てたばかりである。私は、父と現場へ急行した。

東と北の道路に面した角地に建つ家の北側の敷地に、大量の黒い羽があった。

見当をつけて基礎の断熱材の一部を剥がしてみると、その裏にミミズが這ったように蟻道があり、無数のシロアリがうごめいていた。

私も、父も、絶句した。

基礎「外断熱」材が、シロアリにとって格好の侵入経路になるという情報はあったが、現実を目の当たりにしたショックは、とても言葉では言い表せないほど大きかった。

やがて、恐怖感に襲われた。この白い小さな生きものが、すでに土台を食べているに違いない。私は、恐怖を払いのけたくて駆けつけてきた大工さんと力を合わせて土台周りの外壁を壊した。そして断熱材を剥ぐと、12センチ角のヒノキの土台が無惨に食べられていた。

内部はどうかと内側の壁も壊してみた。すると、下地板の隙間を数十匹のシロアリが上り下りしているのが見えた。

そこでシロアリ業者にも来てもらって、徹底的に被害を調査した。土台の被害を追っていくと、北側一面だけでは納まらず西面にも及んでいる。

「これは南側もやられているようですよ」

大工さんが呻くように言ったのを聞いて、父が大きなため息をもらした。私はうまれて初めて父のため息を聞いた。シロアリは情け容赦もなく、南面も東面も、つまり基礎の土台をぐるっと回って侵食していた。


2日後、今度は三鷹市に4年前に建てた家から、同じように羽アリが大量に発生したとの知らせがあった。

それを聞いたときは、足が震えた。

そのときまでに、会社はすでに基礎「外断熱」の家を200棟以上造っていたからだ。こんなペースでシロアリが発生したら、「外断熱」は欠陥工法というレッテルを貼られかねない。

それを推奨している〔「いい家」が欲しい。〕の著者の立場はいったいどうなるのだろうか。

三鷹の家は半地下のガレージがあって、羽アリは入り口のシャッターボックスの真ん中辺りから出てきていた。ヤマトシロアリは土中から侵入してくる。

そこは地面から最も離れているところだけに「なぜ、こんなところから?」と誰もが思った。

土中と繋がっているガレージ側面の断熱材を20センチ幅で帯状にカッターを入れ、剥がしてみた。すると、真ん中当たりに一条の太い蟻道を発見した。光と風に弱いシロアリは、突然の状況の変化にうろたえたようで、私の手のひらに上がってきた。


シャッターボックスをはずし、断熱材を剥ぐと太さ30センチの梁が現れた。真ん中当たりが濡れていて、そこに大量のシロアリが集中し、食い荒らしていた。シロアリにとって水分は蜜のようなものだ。

だから雨漏りは恐い。大屋根から断熱材の外側に設けられている通気層に入った雨水が、シャッターボックスの裏側に回り梁を濡らしていた。しかし、シロアリはどうやって地面から最も離れたところに餌場があると判断したのだろうか。シロアリが持つ神秘的な能力に心底から恐怖を覚えつつも、そのとき、絶対シロアリに強い家を造らなければならないと決意した。

既築の家の蟻害対策

この二つの事例から、会社は多くのことを学んだ。そして、ターミメッシュ・フォーム・システム(TMFS)を用いて、既築の家の防蟻に挑戦した。

TMFSは、オーストラリアで開発された微細目のステンレスメッシュを基礎「外断熱」材の外側から張り、さらに、特殊モルタルで完全に被膜する。

新築の場合とくらべて、既築の場合は工事が数段厄介である。家の周りに設置されたエアコンの室外機をはじめ、給湯機、ウッドデッキなどを移動したりはずしたりしてから断熱材を帯状に剥がし、ターミメッシュで防御ラインを構築するのだ。住んでいる人にしたら、うんざりする工事である。

しかしシロアリは、基礎の立ち上がり部分からだけではなく、1ミリ程度の隙間があれば玄関ドアの周りからも侵入する。したがって、ドアの内外の床タイルを剥がし、下地のコンクリートも壊さなければならない。基礎の部分の工事は我慢するとしても、玄関の出入りが制限され、騒音を伴うそれらの工事は、お客様に多大なご迷惑をお掛けし、不快な思いを我慢していただかなければできないものだ。はたして、お客様は理解し、協力していただけるのだろうか?

「住まいとは幸せの器である。住む人の幸せを心から願えるものでなければ、住まいづくりに携わってはならない」という信条の重みを痛感し、眠られない夜が続いた。

●TMFSの施工資格

ターミメッシュ工法は実に厳しい資格制度によって維持されている。究極の防蟻方法であるという自負が、正に「アリの一穴」をも絶対に許さないからだ。物理的な防蟻工法の場合には、一頭(シロアリの場合、一匹と呼ばない)の侵入を許したら失敗なのだ。薬剤を用いるものとは、そこに大きな違いがある。だから、断熱材にどんなに優れた防蟻性能があるとしても、工事が一穴を疎かにしたら何にもならない。そのために、防蟻性能で特許を取った断熱材でも、保証をしていない。

特に既築の工事の場合には、4SRという厳しい資格が必要になる。当時、マツミハウジングでは現場監督全員に4Sという資格を取得させると共に、4人の4SR資格者を養成した。私は、オーストラリアのターミメッシュ本社に出向いて、それら4人の監督と共にさらに特別な研修を受けてきていた。

既築の家のターミメッシュ工事は全国で、いや世界でマツミハウジングしか当時はできなかった。


そこで、防蟻工事は外部に頼まず自社で行うことにした。私が陣頭指揮をし、TMFSの施工資格を持つ工事部の全員が一丸となり、大工や職人たちも協力して行った。その後3年間は毎年4〜5件発生したが、短期間で手際よく、的確な対処をし、そこで培った数々のノウハウを元にして、後に「MP工法」を開発しシロアリに強い家造りを確立した。

シロアリ問題は、対処を誤れば会社存亡の危機をもたらしかねない重大事だった。幸いなことに、お客様のご理解とご協力が得られ、創業以来最大の危機を乗り越えることができた。


その頃、私は家庭を顧みる余裕がなかった。

一戸建ての借家

冬になるとマンションの部屋は冷凍室にいるような寒さになり、北の窓から結露水が滴り落ち床を濡らす毎日となった。

リビングだけ床暖房が入っていたのだが、他の部屋の床と極端な温度差ができてしまうので、かえって寒さが身にしみた。

最初に勤めた会社で設計したマンションの住人の思いが、いまになって伝わってくるようだった。

外見に一目ぼれした感動はすっかり消えてなくなり、家賃が安いわけを納得し、妻が妊娠したのを知って引っ越すことにした。

たまたま会社で新築したお客様から、それまで住んでいた家を貸家にしたいという相談を受けたのだ。現場監督冥利に尽きると喜び勇んで妻に話し、即決で借りることにした。

その家は木造の2階建てで、築20年が経過していた。

4メートル幅のゆるい坂道を下っていった突き当たりで、南側には短期大学のテニスコートがあり、環境と日当たりと風通しは申し分なかった。

引っ越したのは2月半ばの暖かな日だったが、夕方から北風が強まり、急に寒くなった。

マンションでは床暖房とエアコンで暖を取っていたので、すっかり暖房の準備を忘れていた。その家にはマンションとは異質の寒さがあり、エアコンを最強にしてもどうにも暖まらない。

疲れていたので早く風呂に入って寝ようということになった。だが、北側に位置する脱衣場の寒さにふるえあがってしまい、とてもその気にならなかった。

道路から吹き下りてくる寒風をシャットアウトするだけの断熱性も気密性も皆無の家であることに気づき愕然とした。いたるところから隙間風が入ってきた。

2階の和室に布団を並べて寝てみると、アルミサッシが風きり音を鳴らし、枕元を隙間風が通り抜けていく。

その夜見た夢は、子供の頃さんざんやらされた石油ストーブとの格闘だった。手もみのポンプをいくら「シュポシュポ」やっても灯油が入らないのだ。

翌日、東京ガスの営業所に行き、3日後というのを曲げてお願いしてガスファンヒーターを1階のリビングと寝室に取り付けてもらった。

点火してみると、石油ストーブやエアコンにはない熱風が吹き出てきた。

妻が子供のように「やったー」と手を叩いて喜んだ。

「これで寒さとはおさらばだ」

私は、夫としての責務を果たした満足感にひたったのだが、それはつかの間のことに終わった。


その頃、私は一級建築士の受験勉強をしていた。

2階には3部屋があり、南側に洋間の6畳と4畳半、北側に和室の6畳があった。4畳半を勉強部屋にしたのだが寒くて能率が上がらない。そこでガスヒーターを設置した和室に机を移動した。

ところが、熱風に吹かれていると唇が乾き、喉が痛くなり、ヒーターを止めると急に寒くなり、止めたり点けたりしていると気が散ってこれまた能率が上がらない。

寝る前に部屋が暖まっているのはいいのだが、止めてしまうとあっという間に冷えていく。

妻から「マンションの方がまだ暮らしやすかったね」と言われると、家造りに携わっていながらこんな住み心地の悪い家を借りてしまった責任を問われているようで返事に窮した。


季節は巡って夏のある日、私は現場での体験を語った。

「「外断熱」で工事中の家に行ったんだよ。外部の壁の吹き付けをしている最中だから窓は全部目張りされていて、中でクロス屋さんが仕事していた。さぞかし暑いだろうと入ってみたら、それがびっくりするほど涼しいんだよ。クロス屋さんが、この家は魔法のようだと驚いていた」

その話を聞いて、妻は初めて実家のことを語った。

「そうなのよ。最初の夏、私は玄関を入るたびに涼しいと思わず叫んだわ。エアコンをどこかでつけているとばかり思ったけど、どこもつけていないと言うの。まさか、と何度も問い返した。あれは、夢の家。両親がよく言っていたわ。この家を建てたのはいいけれど、おまえたちが出て行かなくなりそうで心配だ、って。もう1年住んでしまったら、そうなっていたかも」

私は、娘を持った親心と家との関係に興味を惹かれて、言った。

「そうか。あまり住み心地のよい家を建てるのは考えものだね

「そんなことない。ねえ、私たちもいつか「外断熱」の家を建てましょう」

だいぶ大きさが目立つようになってきたお腹をさすりながら、妻の笑顔は輝いていた。

母親が笑顔を失った家

やがて長女が無事生まれた。

翌年9月には2ヵ月ほど早産で2000グラムにも満たない次女が続き、私は一級建築士の試験に合格していた。

1999年2月に、〔「いい家」が欲しい。〕が発売され、翌年に朝日新聞の「天声人語」に、父が「外断熱」しかやらない工務店主として紹介された。

「目からうろこが落ちた」と言って注文に来られるお客様が全国的に増え、その受け皿として、〈「いい家」をつくる会〉ができた。アフターメンテナンスに伺うと、みなさんが住み心地のすばらしさを心を込めて話してくれた。

しかし、私の家族は、寒くて、暑くて、カビくさい家に住んでおり、家に帰るたびに落差の大きさを実感させられていた。現場で、大工さんや職人さんが「マツミの家で仕事していると、家に帰るのが嫌になってしまう」と嘆いていたが、その気持ちがよく分かった。


未熟児の次女の体調が悪く、妻は長女を連れて毎日のように病院へ通っていた。育児ノイローゼになりかかっていたのかもしれない。やたらとヒステリックに子供を叱るようになった。

そんな真冬のある夜に、3歳になった次女が喘息の発作を起こし、毎夜のようにひどく咳き込むようになった。ヒイヒイと苦しげに呼吸するのを見ていると、ガスファンヒーターを点けるべきか、寒さを我慢する方がよいのか判断に迷い、そんなことですら、妻と口論することが多くなった。

真夜中に発作が起きると夜間診療の病院へ連れて行くのだが、仕事で疲れきった日はどうにも起きるのが億劫に感じられ、ある夜、私は妻に任せた。

翌朝、妻は非難するように言った。

「お医者さんから叱られたわ。もっと早く連れてこなければダメだと。手遅れになったらどうするのかと……」

そのときの態度に私は腹が立ち、それから二人の間には会話が極端に少なくなった。

妻は、気管支喘息のアレルゲンとされたハウスダスト(カビ、ダニの糞や死骸、ホコリ)の除去と戦い続けた。長女は大切にしていた縫いぐるみをすべて取り上げられ、甘えると叱られていた。

砂を噛むような日々

残業が続き、その日も家に帰ったのは午後11時を過ぎていた。

食事をテーブルに並べる妻の腕を見て、私は激しいショックを受けた。その腕はガリガリにやせ細って、血管が青く浮き出ていた。

振り返れば、その頃、妻とともに食事をした記憶がなくなっていた。

私は妻に、その場に用意されたものを一緒に食べるように促した。

妻は力なく、「食欲がないの」と答えて階段を駆け上っていってしまった。

母親が笑顔を失った家は、暗くトゲトゲした雰囲気になるばかりだった。

梅雨の時期になると、かび臭さが増し、家に帰ることを煩わしく思うようになった。現場にいる方がはるかに楽しく思われた。

次女は幼稚園に入園したものの迎えのバスに乗りたがらなかった。妻は心配で幼稚園の様子をよく見に行った。

すると、娘は友達とは遊ばず、いつも園庭の端で一人遊びをしていた。運動会では泣いてばかりで親の手を離れようとせず、かけっこのとき、二人の先生に両手を引かれ泣きながら引っ張られていった。

そんな夜の家族との食事は砂を噛むようにまずく感じられた。長女が雰囲気を和らげようと取りとめのない話を持ちかけてくるのだが、上の空でしか返事ができなかった。

次女の様子は、2年目にもさして変わらなかった。

お客様の薦め

その頃、仕事は多忙を極めていた。「ソーラーサーキットの家」が200棟を越えていた。さらに、新築、リフォーム、アフターメンテナンスなどに追われていた。

お客様の家を訪問すると、たいがいの方がお茶を勧めてくれ住み心地のすばらしさを話してくれた。

なかに、喘息やアレルギーの症状が和らいだとか、ほとんど気にならなくなったと話す人がいた。そのような人たちは、以前住んでいた家は、寒くて、暑くて、結露で悩まされ、カビで困ったと同じような悩みを語っていた。

私は自分の家に当てはめ、次女が喘息で苦しむ姿と重ね合わせながら聞いていた。


ある日、久保田紀子さんの家のアフターメンテナンスに行った。そのとき、久保田さんから聞いた話が、転機をもたらすきっかけになった。「はじめに」に紹介したが、久保田さんは〔「いい家」が欲しい。〕を読み家を建て、〔さらに「いい家」を求めて〕(ごま書房新社)という本を書かれた。

「私と息子は、大手ハウスメーカーが建てた新築の家に仮住まいをしていたときに、喘息の発作に見舞われたのです。たぶんホルムアルデヒドだったと思うのですが、鼻にツーンとくる嫌な臭いがいつも気になっていて、冬になると窓は結露でびしょぬれになっていました」

そして、こう続けた。

「この家に昨年引っ越してきたとき、私と息子は健康に自信が持てずとても不安な気持ちでした。それが、半年たっても喘息が起きず、1年過ぎて、もうすっかりあの苦しみを忘れてしまいました。この家が私たちを元気にしてくれたのです」

私は、その話を聞いて次女が喘息で苦しんでいることを話した。すると久保田さんは言った。

「一日も早くこの家を建てることです。きっと、お子さんが元気になりますよ」と。